7 21, 2004
JETRANSワークショップについて
技術(実務、産業)翻訳は申すまでもなくサービス業です。そして、この業務に携わる者の使命は、まず品質の良いサービスの提供であり、それをできるだけ早く、安くということになりましょう。クライアントに約束したデッドラインは絶対に動かせません。しかし、翻訳サービスは、単純に金銭で評価できない面があります。
良質の翻訳サービスとは具体的にどのようなものでしょう。基本は、原文の内容を翻訳者が正確に理解した上で、これを「過不足なく」ターゲット言語に置き換えることです。私どもの業界における先達として後半生を後進の育成に尽くされた故水上龍郎先生の言葉によれば、等価の翻訳ということになります。
この目標を念頭に、翻訳者はさまざまな問題をクリアしながら仕事に取り組みます。すなわち、原稿には往々にして理解の限界を超える文章が含まれています。たとえば、日本語から外国語に翻訳するとき、とくに専門性の高い文章では主語(動作主)の不存在から係り受けが判然としない個所に遭遇します。また、原文は必ずしもテクニカルライティングの手法に則って記述されていないことから、 冗長でまとまりに欠けていたり、また文章作法上の不備も常に可能性として排除できません。これらに対し、翻訳者は当然のことながら最大限の努力を注ぎます。経験を積んだ翻訳者に当該専門分野の知識が豊富であれば、 係り受けなどについては問題となる前に解決できる場合もあり得ます。しかし、あらゆる努力を尽くしてもなおも解決できない個所があれば「翻訳者ノート」 といったメモを用意してクライアントに事情をお伝えしなければなりません。つまり、翻訳者は言語(母国語と対象言語)に堪能であるだけにとどまらず、 専門知識に加え何より仕事に対する真摯な態度と親切心が肝要です。これはどのような職業についても不可欠な要件ではあります。しかし、 この種の真面目さはむしろ生来の資質であり、たとえば接客、営業、交渉などに備えているべき才覚とは対極に位置するものかもしれません。
等価の翻訳ということは正確さが最優先しますが、同時に原文が自然な対象言語に置き換えられていなければなりません。ことさらトレンディな文章を外国の言語で書く必要はなく、また書けるはずもありませんが、対象読者が読解に窮したり、不自然に感じたりするような文章を書くことはできません。しかし、翻訳者はもともと言葉に興味を持っている人種ですから、最大限の努力を惜しみません。対象言語を用いてできるだけ自然な文章を書くために、たとえば英語ネイティブと日常的に交流することも役に立ちます。そのネイティブの職業が翻訳であれば、さらに有益です。
等価の翻訳を実現するためには、それなりの専門知識が不可欠です。そのために、 翻訳者は自分の専門分野に限定して仕事を受注するのが理想です。特許明細の場合などは専門の中の専門といった、もっぱら特殊な知識が求められます。さらに、新旧を問わず現場用語という難物が存在します。これなどは用語辞書に求めるべくもなく、翻訳作業をそこで一時中断し、犬を連れて散歩に出かけるしかありません。
しかし、高度な専門用語、あるいは用途の限られた業界用語や現場用語などをタイムリーに克服する手段があります。それは、翻訳者どうしの助け合いです。昨今の情報ネットワーク環境ではメーリングリストというものが非常に便利です。日本翻訳者協会(JAT)という翻訳者のサークルがあります。1985年に設立され、現在ではNPO法人の認可を受けています。500人を超えるメンバーの約半数は日本人、残りはアメリカ、カナダ、イギリスなど世界各国に在住する英語ネイティブの日英翻訳者です。このサークルのメーリングリストは非常に活発です。日英方向の問題に限られますが、これだけの会員数ですから、全員が協力すればあらゆる分野に対応して解決が得られるということになります。このメーリングリストに最近ポスティングされた質疑応答の一例を紹介しますと、 「滅菌バリデーションによりリリースしていてもそのためだけに一変を行わなくてもよいことになっているため、 現状で承認書に反映されていないが、実際は滅菌バリデーションによっている。」 という原文の「一変を行わなくてもよい」とはどういう意味かという質問が2004年2月3日 11:03に発せられ、 2004年2月3日 14:05に別のメンバーからレスがあり、「「一変を行う」とは、一部変更承認申請を行う、ということです。一度承認をとった製品について、その一部分、たとえば製造工程の一部分、 を変更した場合に出さねばなりません。」というメッセージが返され、その後も5、6人が関連の情報を提供しています。助け合いですから、今回答えてあげた人たちが次回には答えてもらう側になるかもしれません。
かなり経験を積んだ実務翻訳者でも、常に自らの専門分野に精通し、 専門技術や用語などを知悉しているわけではありません。日進月歩のハイテク分野ではなおさらのことですから、日頃の研鑽が不可欠です。そして、このように翻訳者たちがグループ環境で切磋琢磨、相互扶助していることは非常に大切なことです。
人がものを考えるときは言語が介在しています。実務翻訳は、原稿をセンテンスまたはパラグラフごとに読み取って内容を咀嚼し、それをターゲット言語に置き換えて表現していくという作業です。このとき、たとえば和文英訳の場合は英語でものを考えることが必要となります。その作業に要する語学力は、学校で習う英作文やTOEICなどを受験するために学習する英語とは質もレベルも異なります。さらに、実務翻訳はスピードが重要な要件ですから、一般的なものの大部分は、 理想を申せば逐次通訳に準じた速度で進められるべきものです。対象言語で読みやすい文章を書いて仕事の能率を上げるためには、対象語に会話の方向からアプローチしてセンスを磨いていることも有益です。私たちは、外国語への翻訳に関して、このような目標を持って日々精進しております。
技術英語研究会は1977年(昭和52年)に発足し、 先述の故水上龍郎先生が四半世紀にわたって指導されてきた実務翻訳者たちのための勉強会です。当会では、和英翻訳のためのサブグループを設けており、ここでは日本に在住の英語ネイティブ翻訳者を招いて定期的にセッションをもっております。同一の事象についても日本人と外国人では発想や着想が違いますから、受け取り方や表現方法が相当に異なります。互いに「目から鱗」といった体験を繰り返しております。その現場から、異文化理解に重点を置いて親しみやすい和文を題材に用いたセッションの記録を随時更新しながら紹介してまいります。ご意見、ご感想をお寄せください。
なお、英文を書くという理由で、英語ネイティブが講師の立場に置かれます。
「レッスンワ少人数、コシワ外国人。」
**********************************************************
技術英語研究会は、工業英語研究会という名称で昭和52年にスタートしました。その頃の産業翻訳をとりまく環境を思い返せば、まさに今昔の感があります。GG(Green Goddess)と呼ばれる新和英大辞典など、重たい辞書はみな手垢がついてボロボロ。もちろん英訳はタイプライター、和訳は手書き。今のコピペやオンライン辞書、Eメールにファイル添付での納品など夢のまた夢という時代でした。
翻訳関係の定期刊行物といえば、インタープレス社(現IPC)の「工業英語」という月刊誌のみ。ここで岡地栄、丸山藤男、水上龍郎といった錚々たるパイオニアの先生方が連載記事に健筆を振るっておられました。この誌上に翻訳添削教室のコーナーがあり、これを水上先生が担当されており大好評。その熱心な指導では、経験豊かな実務者ならではの的確な助言が行われ、さまざまなレベルの受講者たちは「なるほど、なるほど」とうなずきながら奥の深い異文化間交流の世界に誘われ、さらに興味を高めさせられるものでした。
一方、現在ではテクニカルライティング関係の著作が多い高橋昭男氏が、この工業英語誌の読者を対象に国弘正雄氏など英語の名人や半導体の鳩山道夫氏など工業技術の権威を招いて随時セミナーを主催していました。やがて、そのT氏が産業翻訳の研修サークルを企画し、田町の機械工具会館6階ホールでオリエンテーションが催され、水上龍郎先生を講師とする工業英語研究会が発足しました。
卓越したインストラクターであった水上先生を中心に、媒体となった工業英語誌の編集兼発行人藤岡啓介氏の存在、オーガナイザーとしての高橋氏の手腕、産みの苦しみとでもいうべき事情があって初代幹事を二期連続して務めることになった下岡清二さん(当時水上先生が経営されていた翻訳会社日本テックの翻訳部長)と山下紀幸さん(富士重工業のエンジニア)の努力など、各方面からの多大な恩恵に与って誕生することができました。
水上先生は神田神保町にあった日本翻訳学院(現在は青山のフェローアカデミー)でも講座をもっておられましたが、ここでのすばらしい講義に触れた人たちが修了後に人間味の豊かな先生を慕って次々に入会するようになり、技術英語研究会は発展を続けていました。しかし、2002年1月に惜しくも逝去されました。25周年を祝って間もなく、まったく突然のことでした。その後、遺されたものたちは深い悲しみからようやく立ち直り、JETRANSというサブグループを立ち上ました。まさに野に遺賢ありと称えるべき実践派リンギストであられた水上先生ですが、その異文化間交流のメソドロジーもさることながら直接触れていなければ伝わらない「達人の心」を些かなりとも継承していければと願っています。
投稿者 kz : 09:58 | コメント (0) | トラックバック(0)

